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痛みの記憶、文字に刻み 識字教室で学ぶ神戸のハルモニたち
2005年12月09日

ハルモニたちは「戦争ってどういう文字だった?」とボランティアスタッフにたずね、作文を書いていく。みんな真剣そのものだ=神戸市長田区の長田公民館で

覚えたての文字で60年前の戦争体験をつづる学習に、在日朝鮮・韓国人のハルモニ(おばあさん)たちが取り組んでいる。神戸市の長田公民館で開かれている識字教室「ひまわりの会」。阪神大震災で全壊した夜間中学の生徒たちが毎週土曜に集まって学ぶ。先生の桂光子さん(69)は教室で今夏、「昔のことは忘れたかな」と問いかけた。「おぼえとんねん!」。これまで表現できなかった思いが、ひらがなの連なりとなってあふれ出した。

ふくもふとんもやけたけど ひとはのこってよくいきてた。せんそうはいらん。せんそうはこわいです。

崔庚先(サイ・コウセン)さん(85)は敗戦間近の1945年正月、先に来日していた夫を頼って3歳の娘とともに神戸にたどりついた。「日本語がわからないから、娘とずっと家の中にいた」。同年3月の神戸大空襲。警報が鳴った。が、周囲の日本人がかぶっている防災ずきんがない。娘を抱き、掛け布団をかぶって逃げた。気がつくと、布団も、着ていた服も、焼けこげていた。

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めしやにながいあいだならんで さんにんになったとき、めしやのおばさんが「もう めしないで」といった。つらかったけど また べつのめしやに ならんだ。 それもたべられへんときは ほんとにひもじかった。

東田又愛(ひがしだ・かつめ)さん(86)は20歳で慶尚南道から来日。太平洋戦争中に3人の子どもが次々生まれた。配給所にまだ食糧が残っていたのに、「朝鮮人の分はない」と言われた。夕方、夫の食べ物だけ用意して、食卓に背を向けた。食べている姿を見ると悲しいから。「主人が全部食べてしまった日はがっかりして、泣きたくなったよ」

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わたしはちゅうごくやけど にほんによめにきて、すぐあめりかとせんそうした。 おおきなまち、みんなやけたけど、すぐにようなった。

中国・鎮江出身の張孫氏(チョウ・ソンシ)さん(80)は41年、神戸で理髪店を営む15歳年上の中国人男性に嫁いだ。16歳だった。故郷を遠く離れ、疎開先のあてがなく、空襲の時は、六甲山に逃れた。戦後は、焼け跡から木やくぎを拾ってバラックを建てた。生活は楽にならなかったが、まちの復興は早かった。「震災の時も同じ」と言う。

桂さんは「10年前の震災の体験は、つらいから忘れたと言って作文に書かない人も、戦争の話はあふれるように出てきた」と驚く。

教室で学ぶのは67〜93歳の在日朝鮮・韓国人22人、中国人1人、日本人1人。11月は、原爆のビデオを鑑賞し、峠三吉の詩を朗読した。感想を述べ合ううち、焼夷弾(しょういだん)の話になった。怖かったあの時を描きだそうと、みんなそれぞれ、文字を探して辞書をひいたら、涙が出て、時折手が止まった。

学習は今年いっぱい続ける。
http://www.asahi.com/kansai/kataritsugu/OSK200512090054.html